建築作品一覧

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が付与されている作品は世界文化遺産に登録されています。


名称 作品の特徴 竣工年/施主/所在国
ファレ邸
Villa Fallet
シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ(のちのル・コルビュジエ)の処女作である。
美術学校の学生だった頃、恩師レプラトニエからの紹介で、美術学校の理事であったファレ氏の住宅を設計する機会を与えられた。レプラトニエの友人で地元の建築家ルネ・シャパラの助力を得て、スイスの伝統的な山小屋風住宅を作り上げた。雪が多い地域ということもあり、張り出された軒の深い大きな三角屋根が特徴的な住宅である。
軒下の外壁部分など、いたるところに描かれた植物文様は、アール・ヌーヴォー隆盛の時期に美術学校で学んだ成果である。
自選の作品集の中にはスイス時代の最初期の作品は掲載されていないが、この住宅を手がけたことによって、ジャンヌレ青年は建築家への道を歩み始めることとなる。建築家ル・コルビュジエ誕生へとつながる作品として重要な意味をもつ住宅であると言ってよい。
1907年
ファレ氏
スイス
ジャクメ邸
Villa Jacquemet
ラ・ショー=ド=フォンの町の北側にひろがる急な斜面に、土地の傾斜を利用して建てられている。
《ジャクメ邸》は、処女作《ファレ邸》につづく作品であり、《ストッツァー》と同時にすすめられた。ル・コルビュジエがウィーン滞在中に設計したもので、彼は恩師レプラトニエの自邸のデザインに基づいて行っている。図面にはルネ・シャパラ(地元の建築家で、レプラトニエの友人)と二人で署名している。
雪深い地方ならではの、積雪対策を考慮した大きな屋根が全てを覆う住宅であり、下から見上げると持送りに支えられた軒の深さがよく分かる。
1908年
ジャクメ氏
スイス
ストッツァー邸
Villa Stotzer
ラ・ショー=ド=フォンの町の北側にひろがる急な斜面に、土地の傾斜を利用して建てられている。
《ストッツァー邸》は、処女作《ファレ邸》につづく作品であり、《ジャクメ邸》と同時にすすめられた。ル・コルビュジエがウィーン滞在中に設計したもので、彼は恩師レプラトニエ(ル・コルビュジエのスイス時代の恩師)の自邸のデザインに基づいて行っている。図面にはルネ・シャパラ(地元の建築家で、レプラトニエの友人)と二人で署名している。
1908年
ストッツァー氏
スイス
ジャンヌレ・ペレ邸
Villa Jeanneret-Perret
ル・コルビュジエのいわゆる「東方旅行」の後で設計されたものである。
《ジャンヌレ・ペレ邸》は彼の両親と自分のための住宅(兄はすでに家を出ていたため)で、ラ・ショー=ド=フォンの緑の斜面に映える白い漆喰の外観から「白い家」と呼ばれている。それまでの住宅とすっかり異なり、ヨーロッパ各地を旅して、見聞してきた成果を生かそうとしたのか、古典的なスタイルを追求した住宅建築である。大きく窓がとられ、室内は全体的に明るい。連続する窓や、比例を意識したファサード、プランなどに、後のル・コルビュジエ建築の萌芽が認められる。ただ、大きくかぶさる帽子のような屋根には、スイスの山小屋風住宅の名残も見ることができる。
残念ながらジャンヌレ家がこの住宅に住んだのはわずか数年間のことで、金銭的な問題などから、1919年には売却されてしまった。
近年、修復工事が行われ、現在では、スイス時代のル・コルビュジエを知るための博物館として公開されている。花柄の壁紙なども忠実に再現され、当時の姿に接することができる。
1912年
ル・コルビュジエの両親の家
スイス
ファヴル・ジャコ邸
Villa Favre-Jacot
ラ・ショー=ド=フォン近郊のル・ロクルに建てられた《ファヴル・ジャコ邸》は《ジャンヌレ・ペレ邸》と同時期につくられたが、円形の前庭に沿った半円状のファサードをもち、装飾的な柱、半円形アーチを使うなど、より一層古典主義的な表現が見られる。
5年後の《シュウォッブ邸》で強調されるコーニス(軒蛇腹)は、まだこれらの作品では明確ではない。
1912年
ファヴル・ジャコ氏
スイス
シネマ・ラ・スカラ
Cinema "La Scala"
ラ・ショー=ド=フォンで手掛けた映画館スイス
シュウォブ邸
Villa Schwob
シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ青年がパリに移る前、故郷ラ・ショー=ド=フォンで手掛けた最後の住宅建築。
ヨーロッパの古典的建築様式が取り込まれている一方、「トルコ風ヴィラ」と呼ばれるように、ビザンチンやイスラムの様式を彷彿させるディテールをもつ。ただし、当時「トルコ風」という呼び方は、「一風変わった」というニュアンスであり、厳密に「トルコ様式」という意味ではない。 半円形の張り出しが左右両側に配された左右対称のプランや、道路側の不思議なブランクパネル、寒冷地にもかかわらず採用された南側の巨大ガラスなどが特徴的な住宅である。
また、2階吹き抜けの空間や、陸屋根など、のちのル・コルビュジエの建築言語が用いられた最初の住宅である。
スイス時代の作品のなかで、彼の自選作品集に唯一掲載されているのがこのシュウォブ邸であることからも、この住宅の重要性が理解できよう。
シュウォブ邸は、現在は高級時計メーカー「エベル社」の所有となり、ゲストハウスとして使用されている。
1917年
シュウォブ氏
スイス
労働者の住宅
Cite ouvriere
ル・コルビュジエがフランスに出てまもなくの、ごく初期の住宅作品。並んだ2住戸で1棟を成す三角屋根の住宅である。当初は大規模な計画であったが、実現したのは1棟のみだった。
「これは『サン・ニコラ・ダリエールマンの時計工場で働く労働者のための田園都市』であるが、300メートル×100メートルの敷地に46戸ほどの住戸を計画するというもので、ここでル・コルビュジエは金属サッシュ導入やプレファブ化されたコンクリート・ブロックを使っての建設方法をスイス・ローザンヌのコンクリート会社と試みるが、施主の了解が得られず、最終的にこの地方の在来構法を用いることとなる。
施主の意向もあって結果としてイギリスの「田園都市」を意識した、外観はブロック積の壁に木造の勾配屋根がのるという、伝統的地方色豊かなものとなってしまった。」「外観があまりにも彼のイメージ、量産住宅から遠かったこともあってか、彼の作品集はもちろん、彼の著作中でこのプロジェクトが触れられたことはないのである。」(山名義之『ワイセンホーフ・ジードルング』展冊子)
1919年
フランス
給水塔
Chateau d'eau
ボルドー近郊に作られた給水塔で、自選作品集の中にもスケッチが掲載されている。フランス
Aménagement de la ville Berqueフランス
ベスニュ邸(ヴォークルソンの住宅)
Villa Besnus, "Ker-ka-Re"
パリに出て最初に手掛けた住宅として、自選の作品集の中でも写真入りで詳しく紹介されている。《オザンファン邸》と共に最初期の作品として重要だが、残念なことにすっかり改修されてしまい、現在ではその面影が全く無く、ほとんど忘れられた作品となっている。
1922年の「サロン・ドートンヌ」でル・コルビュジエが提示した「シトロアン住宅」を気に入った施主が、その模型と同じようなものを作って欲しいと依頼してきたにも関わらず、ル・コルビュジエが作ってみせたのはかなり違ったものとなった。
当時はまだコンクリート・スラブを住宅に用いるのは新しい試みであったため、竣工したとたん、構造上の問題が明らかになり、家は雨漏りし、施主からは苦情を言われる事となった。
傾斜地に建っているため、通り側に見えるのは3層だが、庭側は2層となっており、道路側ファサードは張り出した出窓を中心に、窓などの要素が規準線に従ってリズミカルに構成され、船窓を思わせる丸窓が印象的である。庭側は完全なシンメトリーとなっている。住宅本体から飛び出した階段室が特徴的で、内部はほとんど間仕切りの無いフリー・プランである。その後のル・コルビュジエの作品へと展開していく幾つかの特徴をすでに見ることができる。
1922年
ベスニュ氏
フランス
オザンファン邸
Atelier Ozenfant
ル・コルビュジエとともに雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を発行し、ピュリスムの時代を共に活動した画家アメデ・オザンファンのための住宅兼アトリエである。
ピュリスムの美学によって作られた、いわゆる「白い箱(鉄筋コンクリートに白いスタッコ塗り)」の住宅で、ファサードに適用された規準線、黄金比や、工場の美学を表現した「のこぎり屋根」、2階部分の連続横長窓などが特徴的である。アトリエをもつ住宅というプランは《オザンファン邸》に始まり、《リプシッツ+ミスチャニノフ邸》《プラネクス邸》や《ナンジェセール・エ・コリのアパート》などへと続く系譜である。絵画の制作という条件から光の扱いが問題であり、壁面に可能な限り大きな開口を設けながらも、トップライトを設けたり、2層分吹き抜けにしたりするなど、大きな空間を作りだしている。《オザンファン邸》では、3階部分が天井が高く、広々と気持ちの良いアトリエになっている。
1924年
オザンファン氏
フランス
レマン湖の小さな家
Petite maison au bord du lac Léman
両親のための60㎡ほどの小さな家で、家のプランを練り上げてから、それが収まるような美しい眺望の敷地を探し、その結果、レマン湖畔の北東部の風光明媚な小村コルソーの細長い敷地に建てられた。11mにおよぶ横長の連続窓からは、まさに船窓から見るかのような景色が望め、庭の一隅はピクチャーウィンドウによって切り取られた景色が楽しめる。
寝室、居間などのスペースが緩やかにつながり、小さいながらも機能的な住宅である。湖側のテーブルは可動式で、生活に合わせて窓下のレールに沿って、スライドさせることができる。
また、客間は、狭いながらも収納式のベッドや洗面台などを設置することで空間をうまく利用している。
陸屋根はほんの少し傾斜がつけられ、水はけを良くしてあり、屋上は緑に覆われ、屋上緑化のはしりである。
屋上に上る外階段の上部には、愛犬が外を見渡せるような台が設けられているのも面白い。
地下室の浮力のせいで壁にひびが入ったため、湖側ファサードは後にアルミの薄板で覆われた。
ル・コルビュジエの父ジョルジュは1926年に亡くなったが、母マリーは1960年に100歳で亡くなるまで長くこの家に住み続けた。
1923年
ル・コルビュジエの両親
スイス
リプシッツ+ミスチャニノフ邸
Maisons Lipchitz + Miestchaninoff
もともと、リプシッツ~ミスチャニノフ~カナルの3軒続きの住宅兼アトリエとして建設を予定されていたのだが、カナル氏の住宅は実現しなかった。このため、ミスチャニノフ邸の2階部分から延ばされ、カナル邸につながるはずであったペデステリアン・デッキは、途中でぶつりと切れた状態となっている。
彼らはいずれも彫刻家であり、大きな作品を制作、そして搬出入するために広く高いアトリエを必要としていたので、1階を2層分吹き抜けのアトリエとし、その上の3階に当たる部分を住まいとした。下階に住まい、上階にアトリエを置いた《オザンファン邸》をちょうどひっくり返した構成となっている。
《ミスチャニノフ邸》の角の部分はアールがかかっていた階段室となっており、それは船の煙突をイメージしたといわれている。
両邸とも個々のサッシは大きくはないが、それらは連続し壁面全体に大きな開口部を作り、万遍なく日差しを取り込んでいる。とくに《リプシッツ邸》は敷地いっぱいの道沿いに壁面で続くが、大きなガラスの開口部をもつせいか、全体が薄い皮膜のような印象を与える。
白い外壁の作品が多い時期にあって、これらは外壁を赤茶色に塗っているが、こうした色彩は《テルニジアン邸》や《ペサックの住宅群》とも共通する。「立体や平面、輪郭や色彩といった物理的感覚のものがひとつの協奏曲となる時、強い抒情を生み出し得るのだ。」(『全作品集』1巻)と、ル・コルビュジエは記している。
ジャック・リプシッツ氏
オスカー・ミスチャニノフ氏
フランス
ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸
Maisons La Roche - Jeanneret
独身のラウル・ラ・ロッシュ氏の家と、ル・コルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレ夫妻の家の2棟続きの住宅である。
この住宅では様々な建築的試みがなされている。まずここで、初めてピロティが実現された。ギャラリー棟が持上げられ、それによって、浮遊するボリュームが生まれた。
《ラ・ロッシュ邸》は、吹き抜けの大きな玄関ホールを中心に階段、ブリッジ、見下ろし台などが配され、ラ・ロッシュ氏のコレクションを展示してみせるためのギャラリー部分では、湾曲した壁沿いにスロープを設けることで、散策へといざない、空間に時間性を導入することで、「建築的プロムナード」を演出している。
さらに、ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸の平面には、幾何学的に整理された構図の中で、いくつもの線が重なり合いながら、線が連綿とつながっていく彼の絵画作品の表現と相通じるものが読み取れる。
そして、白を基調に、陰部分には暗めの色、明るい壁には赤、というように、色彩による建築的カモフラージュが試みられている。
この住宅は、ル・コルビュジエによる「住宅構成の4つの型」の第一番目に挙げられ、「各構成部分が、その有機的構成理由に従って、他の部分に隣接する」、「内部が自ずから広がり、その結果として外部が決定される」という手法で構成されている。
もともとは別の3者のための計画であったが頓挫し、施主が替わったという経緯がある。ちなみに、同敷地の右隣には「ヴォワザン自動車・飛行機工場」の支配人であるモンジェルモン氏のための住宅を計画したが実現しなかった。
現在はル・コルビュジエ財団本部の建物となっており、《ジャンヌレ邸》は事務局、資料室となり、《ラ・ロッシュ邸》は一般公開されている。
1925年
ラウル・ラ・ロッシュ氏
アルベール・ジャンヌレとロッティ・ラーフ夫人
フランス
レージュの住宅
Maison et cantine, Lege
1925年に完成するペサックの住宅に先立って、ル・コルビュジエはレージュにおいて同じ施主からの注文で労働者用の住宅を手掛けた。7棟10戸の住宅。1924年
アンリ・フリュジェス氏
フランス
トンキンの住宅
Maison du Tonkin
1924年
フランス
シテ・フリュジェス(ペサックの住宅)
Quartiers Modernes Fruges
ル・コルビュジエに心酔した事業家アンリ・フリュジェス氏が、自分の工場労働者たちのための住宅を大量に建設しようと計画し、その実施をル・コルビュジエに頼んだ宅地開発事業である。当初200戸あまりを予定していたが、実際に完成したのは約50戸あまり。それでも、色とりどりの住宅が立ち並ぶ街路の景観は圧巻である。3階建ての摩天楼型から、アーチ状の屋根のテラスで連結されるアーケード型や、凸凹して塊を形成するケコス型、ジグザグ型などの住宅が、繰り返されるリズムの中に配置された。
5mの立方体を1単位として、それとその半分のサイズの組み合わせによる幾何学的な住宅にすることで、標準化された安価な量産住宅をつくろうとしたが、実験的な試みが多かったため、最終的には高くついてしまった。
木や石、鉄筋コンクリ―トなどによってつくられたが、セメントガンで表面は質感を隠し、白、こげ茶、薄緑、ブルー、ピンクといったさまざまな色で塗装することで、重量感を軽減し、光と影を強調しようとした。
カラフルな四角い箱が並ぶ街区の様子は現在見ても古びていないが、当時は、田舎町にこのような住宅は新しすぎて受け入れられず、水道や電気が引けず、3年間空き家状態が続いたという。
その後に入居した住民たちが陸屋根に三角屋根を付けたり、窓周りに装飾を加えたりするなどの改変を行ってしまった結果、すっかりオリジナルの姿が失われたが、1980年代になってから、住宅建築としての重要性が認識され、文化財に指定され、修復作業がすすめられた。現在では1棟が展示棟として公開され、他の住戸は大切に住まわれている。
1925年
アンリ・フリュジェス氏
フランス
プラネクス邸
Maison Plainex
施主アントニン・プラネクス氏は墳墓彫刻の仕事をしていたアーティストであり、そのためアトリエ+住まいという目的で建てられた。ここから近いところに《オザンファン邸》があり、建築の用途も同じということもあり、共通するディテールの応用が見られる。
ガラス窓を大きくとった1階は、中央のガレージをはさんで、左右に2つのアトリエがあり、2階はアトリエ使用者用の居室。そして3階は居住部分で4階は一部アトリエとなっている。3階以上へは表通りからも入れるが、裏側からもブリッジを渡って入ることができる。裏側には庭があることから、大きな窓をもち、開放的である。基本的にはシトロアン住宅を原型としたヴァリエーションである。
表通りに面したファサードはシンメトリーが強調されているが、さらにその中央部にあって人目を引くのが、飛び出した四角い凸型である。この凸型は《ベスニュ邸》《ジャンヌレ邸》《クック邸》《スタイン+ドゥ・モンジー邸》《ナンジェセール・エ・コリのアパート》のファサードに繰り返し見られる張り出しである。この張り出し部分の側面は窓になっているが、正面には小さな小窓が真ん中に開いているだけである。
さらに、屋上に設けられた三角形のトップライトは《オザンファン邸》や《ペサックの住宅群》などに共通している。
裏側にある軽快な階段も《オザンファン邸》との類似を見る。《オザンファン邸》では正面に、《プラネクス邸》では裏庭側にあるわけだが、ともに真っ白く軽快な階段であり、それぞれ住宅の2つめの玄関へと導いている。この細さ、線の多さは、1920年代後半の彼の絵画に共通の要素である。
このように、《プラネクス邸》は目立つ作品ではないが、作品どうしを結び付ける多くのディテールを備えた、彼の20年代らしい住宅作品の一つである。
1927年
アントニン・プラネクス氏
フランス
レスプリ・ヌーヴォー館
Pavillon de l'Esprit Nouveau
1925年「アール・デコ博(国際装飾芸術博覧会)」(パリ)の際に、ル・コルビュジエが主催者側からの妨害に遭いながらも建設した自主参加のパビリオン。プランタンやボンマルシェなど色とりどりの電飾で着飾った華やかな百貨店系のパビリオンが多い中、ル・コルビュジエのパビリオンは異彩を放っていた。
雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』の名前を取ったこのパビリオンは、ル・コルビュジエによる新しい住まいのプレゼンテーションである。
シトロアン型住宅が積み重なった集合住宅「イムーブル・ヴィラ」の中の1住戸を取り出して見せたモデルルームのような部分と、パリのための都市計画「ヴォアザン計画」を巨大なパノラマ写真で見せた展示スペースの、2つの部分に分かれる。

単なる住宅という箱だけではなく、その中で使われる家具、置物、壁に掛けられる絵画、それらすべてがつくりだす環境そのものが「新精神(エスプリ・ヌーヴォー)」である。
建物は無装飾で、様々な要求に応えるべく全ては“標準寸法”によって工場で制作された鉄筋コンクリート製のプレハブ住宅。収納棚が間仕切りとなっている。スライディングドア、メタルフレームは家具製造会社RONEOで製作された。家具やその他の小物は工場の生産機械やフラスコ、ビーカーの類と同等の機器と考えられている。
室内に置かれた美術作品は、オザンファン、レジェ、リプシッツと自らが制作したものだったが、他に飛行機の模型が壁に掛けられているのが、時代の精神を表している。
1925年
ル・コルビュジエ
フランス
テルニジアン邸
Maison Ternisien
芸術家夫妻のための住宅である。非常に鋭角な三角形の敷地と、その中央に立つ松の木を生かし、その松の木をはさんで三角形と長方形の分割された2つのヴォリュームからなっている。
船の舳先を思わせる鋭角な三角形部分は1層であり、ポール・テルジニアン氏のピアノためのスペース、そして長方形の方は画家であったニヴリー夫人が絵画を制作するための2層吹き抜けのアトリエとなっている。音楽と美術という2つの芸術のための空間を分け、そして両者をつなぐ部分にエントランスがあり、その背後に水回り、寝室などが置かれた。
高低差をもつ屋上庭園は「ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸」でも見られ、後年の「ラ・トゥーレットの修道院」などでも見ることができる。
その後、1936年に舳先の部分だけを残した形で、別の建築家の設計によるアパルトマンが増築されてしまい、現在ではオリジナルの姿は想像するのも難しい状態になっている。
1926年
テルニジアン氏
フランス
スタイン+ドゥ・モンジー邸
Villa Stein / de Monzie
スタイン家はフィレンツェのルネサンス様式のヴィラをよく訪れていたこともあり、ル・コルビュジエは古典主義的な田園住宅の伝統を踏まえた住宅として計画した。このため、この邸宅の美しさを探るとき、イタリアの建築家パラディオ(1508~1580年)の《ヴィラ・マルコンテンタ》との比較が語られる。
凸凹がほとんど無いシンプルな長方形の箱の中に展開されるのは、自在なプランによる多様な空間であり、2:1という比例と、シンメトリーの構成の中で、曲線が二次的な軸線を規定している。さらに、屋上庭園はまるで船の甲板を思わせ、船のモチーフがあちこちに見られ、象徴的である。
<数学的比例の使用> 2:1:2:1:2(柱間 5m、2.5m、5m、2.5m、5m)という、リズムを繰り返す古典的プロポーションに加えて、黄金比、規準線が南北ファサードに用いられ、窓の位置が決定されている
<積層する量塊(ボリューム)的表現> 南側の2層吹き抜けの大きなヴォイドなキューブや、セットバックした小ぶりな彫刻的屋上庭園、厳格な幾何学への対位表現としての、自由にカーブしたパーテーションを有する各階平面など、自由自在に空間が組み合わされている。
「難しい課題。単純な直方体の内部を分割し、そこに精神的あるいは理性的な満足をもたらすことは容易ではない。」(『作品集第1巻』)
「第2の型式は、整然とした完全に純粋な外郭の内部に各部分を押し込めるというやり方です。これは非常に困難な仕事ですが、自分で課した拘束の中で、精神的なエネルギーを消費することですので、うまくいくとエスプリの歓喜をもたらすやり方でもあるのです。」(『プレシジョン』)
1928年
スタイン夫妻、ドゥ・モンジー夫人
フランス
救世軍、人民の家
Armee du Salut, Palais du Peuple
救世軍のために建てた最初の作品1926年
救世軍
フランス
クック邸
Maison Cook
《スタイン+ドゥ・モンジー邸》《サヴォア邸》と並ぶ、完成度の高い20年代を代表する住宅の一つであり、「新しい建築の5つの要点」を明快に示した住宅である。
各階に割り当てられた機能分化、ピロティによる地上との分断、どの階にも見られるカーブした自由な間仕切り、横長連続窓による皮膜と化したファサード、4階ヴォイドによる屋上庭園の示唆など、ル・コルビュジエのさまざまな表現方法を見ることができる。
クック氏も満足し、「あなたが単に芸術作品として偉大な住宅ではなく、太陽と光に満ちあふれた、とても美しい住宅を実現してくれたことに気が付きました。」とル・コルビュジエに対して書いている。
《クック邸》はマレ・ステヴァンとレイモン・フィッシャーが設計した住宅の間に挟まる形で建っている。
1927年
クック氏
フランス
ギエット邸
Maison Guiette
ベルギーに現存する唯一のル・コルビュジエの建築作品で、画家であるルネ・ギエット氏のためのアトリエ兼住宅である。
(ベルギーでは、1958年のブリュッセル万博でパビリオン《フィリップス館》を手掛けたが会期終了後撤去されている)
間口9メートルで奥行が深い細長い敷地に建ち、前面は道路に面しているが、住宅後ろには庭が広がっている。
平面は1対2の2倍正方形を基準に、黄金比なども用いてデザインされている。
玄関側のファサードと庭側のファサードは、ちょうど上下反転したデザインになっている。
居間を1階に置くことが望まれたため、ピロティは用いられていない。
ル・コルビュジエのスタジオの特徴である高い天井高を、3階上部を吹き抜けにすることで実現している。
「シトロアン型住宅」の発展形である。
1926年
ギエット氏
ベルギー
ワイセンホーフ・ジードルングの住宅
Maisons Weissenhof-Siedlung
ドイツ工作連盟が主催し、ミース・ファン・デル・ローエがディレクターとなって、十数名の新進気鋭の建築家に声をかけて実現させた新しい住宅建築を紹介する「住宅建築博」に、ル・コルビュジエは1家族用と2家族用の2棟の住宅を建設した。
短期間の建設だったため、現場には弟子のアルフレット・ロートが常駐して実現につとめた。
吹き抜けや壁面のカーブの表現に、この時期のル・コルビュジエらしさが見られ、可動間仕切りの棚や収納式ベッドなどによって、一つの空間を昼夜2パターンで使うなど、空間を有効利用できる工夫がなされており、こうした工夫が最小限住宅の提案へとつながっていった。

一家族用住宅 (Bruckmannweg 2) 住宅No.13
シトロアン住宅の実現化。
シトロアン型量産住宅案(1922)においてル・コルビュジエは、「自動車のような家屋」、「列車や船室のように構想、処理された住宅」、「道具としての住宅」、「タイプライターのように便利な家」を構想したと語っている。

二家族用住宅 (Rathenaustrasse 1-3) 住宅No.14&15
70センチ幅の廊下の内側に、列車のコンパートメントを意識して、キッチン、バス、リビング、寝室など住宅の機能を全て押し込んだ。ベッドは、昼間は折りたためるようになっており、可変式間仕切りによってあらゆる生活の多様性に対応できるフリープラン(シングル・ルーム)が考えられている。
1927年
ドイツ工作連盟
ドイツ
チャーチ邸
Villa Church
郊外の広い敷地に建てられていた住宅の増改築1927年
チャーチ氏
フランス
ネスレ・パビリオン
Pavillon Nestlé
1927年、乳製品、加工食品などをあつかう一大メーカーのネスレから依頼されて、翌年以降3年にわたって各地を巡回する食品見本市のための組み立て式のパビリオンを手掛けた。V字型の屋根に全面ガラス張り、ロゴを用いたブルーの看板に、調整粉乳と練乳を表す二つの大きな缶がアクセントとして加えられた奇抜なデザインである。内部には商品が展示され、天井にはパネルが飾られ、2頭の牛が台座の上に置かれた。来館者はその中を回遊式の順路に沿って進み、商品を見たり、購入したりできるようにつくられた。1927年
ネスレ社
フランス
ベゾー邸
Villa Baizeau
北アフリカ、チュニジアの首都チュニスの北東海岸沿いに建つ住宅である。
《ワイセンホーフ・ジードルング》におけるル・コルビュジエの寄与に感銘を受けたチュニジアの工業家であるベゾー氏が依頼してきた住宅である。
ベゾー氏は、現地の気候についてル・コルビュジエに建築的解決を求めた。その結果、コンクリート・パラソルのような屋根が付けられ、上下のスラブにはさまれた各階はテラスを持ち、開放的に風を呼び込むプランとなっている。この住宅は、彼が30年後にインドで手がけることになる厳しい気候風土における住宅を暗示するものとなった。
《ベゾー邸》について、ル・コルビュジエは「住宅の4つのコンポジション」の中の第3型式として記している。すなわち、「外側に見える骨組みにより、荒格子状の単純で明快、そして透明な外郭を形成し、内部は各層ごとに独自に構成し、フォルム、規模ともに、諸居室の必要ヴォリュームを設けるのです。工夫に富んだ型式で、ある種の気候には適合します。その上、構成が簡単でかつさまざまな策を講じることができます。」(『プレシジョン』)
この住宅を手がけた時期は《サヴォア邸》のプロジェクトにわずかに先行しており、そのスタディの中には《サヴォア邸》を思わせるスケッチも残されている。
1929年
チュニジア
セントロソユーズ
Centrosoyus
ル・コルビュジエがロシアで手掛けた唯一の作品。
巨大なオフィスビルで、全面ガラスのカーテンウォールと地元産の赤い石を貼った外壁が特徴的である。
モスクワという寒い土地にありながら、密閉した二重のガラス壁の間に空気を循環させることで、「完全な空気」を作り出し、夏涼しく冬暖かいオフィス空間を作ろうとしたが、当時の技術ではなかなか理想的なレベルにまではいたらなかった。
1935年
ロシア
サヴォア邸
Ville Savoe "Les Heures Claires"
20世紀を代表する住宅建築で、もともとは裕福なサヴォア家が週末にパーティーを開くためだけに建てられた週末住宅である。
7ヘクタールという広大な敷地で、セーヌ川を見下ろす森に囲まれた丘に建てられ、1フロアはおよそ約400㎡もある。
「田舎の上品な風景を楽しめる週末住宅」というのが、パリに住む施主夫妻からの要望であり、ル・コルビュジエは究極に洗練されたエリートのための規格化された住宅というイメージで取り組んだ。計画段階ですでに予算が大幅超過したため、短期間で規模を縮小した結果、上下階の柱の位置が違うなど構成に無理が生じている。それでも契約額の2倍となってしまった。
ピロティ、水平連続窓、屋上庭園、自由な平面、自由な立面という「新しい建築のための5つの要点」が洗練されたかたちで実現されているほか、スロープ、螺旋階段、トップライト、ピクチャーウィンドーなど、彼が好んだ建築言語が多数用いられ、明るく清潔で合理的な住空間を作っている。
白い幾何学的な四角い箱が細いピロティによって持ち上げられ、軽快な印象を与える。
敷地に入ってから、建物をぐるりと散策して屋上テラスに至るまで、空間を連続的に体験する「建築的プロムナード」が巧みに構成され、この楽しみは彼の後期の作品へと展開されていく。
プロムナードの終着地である屋上テラスの「窓」は、サヴォア夫妻の自動車の窓を参照したものである。
このプロムナードの中心になっているのがスロープであり、ギーディオンはスロープのことを「芸術における空間と時間の連続体」で評しているが、スロープが家の真ん中にあることが、建物の強度に影響が生じさせ、さらには漏水の原因にもなった。完成後すぐに雨漏りが始まり、延々と修繕を必要とすることになってしまったのである。
雨漏りとその修繕に対する対応でル・コルビュジエに対してうんざしりていたこともあり、サヴォア氏はこの住宅にあまり愛着を感じていなかったのか、ここで過ごす機会は少なかった。第2次世界大戦が始まると打ち捨てられ、干し草置き場となり、戦後は荒廃が進み、崩壊の危機に見舞われたが、アンドレ・マルロー大臣によって命拾いし、修復保存がすすんだ。数回施された修復工事によって、もとの姿を取り戻すことができた。
ル・コルビュジエの「白い家」の掉尾を飾る作品として、完成された美しさをもつが、そのことは同時に、次のステップへと移行するための終わりの始まりとも言える作品である。
1931年
サヴォア氏
フランス
サヴォア邸の門番の家(庭師の家、庭師小屋)
La maison du Jardinier, Villa Savoye
《サヴォア邸》の敷地に入ってすぐ、門の横に建つ小さな白い住宅が《門番の家》である。この地を見学に訪れる人は、この住宅を視界の端に留めながらも、その多くは通り過ぎてしまう。しかし、この小さな住宅にも彼の新しい住まいへの提案がなされている。
1階にはシャワールームや洗濯室、倉庫があり、外階段(内階段は無い)を上がると、2階に玄関、リビングルーム、キッチン、寝室、バスルームがある。
小さいながらも、「新しい建築の5つの要点」のうち屋上庭園以外の要素がきちんと盛り込まれている。
ル・コルビュジエが当時関心を持っていたテーマの一つに、量産可能な小住宅があった。
《サヴォア邸》の時期には、いくつかの先行、あるいは同時進行していたプロジェクトがあったが、1927年にはドイツの《ワイセンホーフ・ジードルング》で1家族用、および2家族用の住宅を手がけ、1928年には「ルシュール住宅案」において、プレハブ素材と現地産の石などの素材を用いた、低所得者層向けの住宅計画などに取り組んでいた。
《門番の家》は、この系列上にあるコンパクトな住宅で、こうした住宅の工夫は《ユニテ・ダビタシオン》や《カップ・マルタンの休暇小屋》《ロンシャンの巡礼者用施設》といった住空間作りへと展開されていく。
1931年
サヴォア氏
フランス
ベイステギ邸
Appartement de M. Charles de Beistegui
非常に奇妙な作品の一つ。既存のアパルトマン最上階にあるペントハウスの改修である。
ベイステギ氏の装飾過多な趣味と、ル・コルビュジエの簡素を好む傾向は、お互い相容れないものであったはずだが、1920年代末にベイステギ氏は当時の流行であった「シュルレアリスム」に一時的にかぶれていたことから、パリの目抜き通りであるシャンゼリゼ通りに持っていたパーティー用の立派なペントハウスの改修をル・コルビュジエに依頼することになったのだと思われる。
そして、できあがったのが、ボタン一つであちこちの壁がスライドするという、やたらと電気仕掛けの、ちょうど舞台装置のような空間である。とくに屋上庭園の一角に設けられたフォリーは、電気仕掛けで動く壁を備え、足元には芝生が植えられ、そこにルイ15世風のダミーの暖炉に装飾的なソファまでもが置かれた。しかし、天井は無い。まったく自由奔放な遊びの空間であり、ル・コルビュジエの作品の中でも唯一無比の作品である。
ベイステギ氏はまもなく装飾の世界へ耽溺し、ヴェルサイユ近くにあった邸宅と、ヴェネツィアに購入したパラッツォをあきれるほどの装飾的内装に改装した。そして、このシャンゼリゼのペントハウスは、第二次世界大戦中に壊されてしまった。
1931年
カルロス・デ・ベイステギ氏
フランス
救世軍の船
Armee du Salut, Asile flottant (Peniche Louise)
救世軍が所有するコンクリート製の船の内装デザイン等を担当した。難民たちを収容するための施設で、セーヌ河の河岸に係留されている。
船内はがらんとした大きな空間で、そこに多数の2段ベッドが置かれ、多くの難民が寝泊まりできるようになっていた。
1929年
救世軍
フランス
救世軍難民院
Cite de Refuge, l'Armee du Salut
パリにつくられた、救世軍による難民のための施設。宿泊施設として5~6千人用のベッドを備えているが、それだけでなく、食堂、管理事務室、福祉相談所、診療所、託児所、宿泊者用の図書室、作業所、屋上日光浴場、従業員用住戸などの設備を整えている。
狭い敷地にいろいろな要素が詰め込まれたため、直方体の本棟屋上にジグザグの搭が乗り、その前にシリンダー状の中央ホール、立方体の入口ポルティコなど幾何学形態が積層し、あまり整理されていない印象を強く受ける。
鉄筋コンクリート造の地上9階地下1階という大型の建築で、セーヌ川近くで軟弱な地盤の上に建てられているため、柱は杭を地下12~15メートルにまで打ち込んである。
同時代につくられた《イムーブル・クラルテ》や《スイス学生会館》と同様、ガラスやガラスブロックを多用したデザインとなっている。
南側は完全に密閉したガラスのカーテンウォールが採用されたが、空調の不調から見事失敗。それが、ブリーズ・ソレイユ開発への道を開いたと語られる。
現在目にするカラフルなファサードは、戦後の改修工事を経たものである。
1933年
救世軍
フランス
マンドロー夫人邸
Villa de Madame H. de Mandrot
「CIAM」の設立を支援した大パトロンであるマンドロー夫人のための住まい。
南仏トゥーロン近くのル・プラデの広大な敷地の中に、木と石でこじんまりと作られた。庭にはジャック・リプシッツによる彫刻が置かれている。自然素材を利用したシンプルな住宅で、当時は広々とした芝生の中に建っていた。
1929年
エレーヌ・ド・マンドロー夫人
フランス
スイス学生会館
Pavillon Suisse, Cité Internationale Universitaire
「パリ大学都市」内には、パリに留学している学生のための学生会館がさまざまな国によって建設されている。ル・コルビュジエはスイスとブラジルの学生会館を手がけた。
《スイス学生会館》は、鉄筋コンクリート+鉄骨造。ピロティに支えられた寄宿棟と、湾曲して突き出した低層のホール棟、間をつなぐガラスブロックが目に付く階段室からなる。
談話室のホールにはル・コルビュジエによる大きな壁画(戦後制作)を見ることができる。
外壁は、それまでの塗装で仕上げた住宅作品などとは大きく異なり、「目地」がはっきりと示されている。とくに東西壁面に見られるコンクリートパネル、突き出した北側ホール棟の乱石積み外壁など、素材の質感とその輪郭を際立たせる目地を見せているのが、30年代以降の特徴である。
また、それまでの繊細な丸い脚とは異なり、ここでは「犬の骨」とよばれるコンクリート打ち放しの力強いピロティの脚が用いられた。
「ル・コルビュジエが必要としていたのは、構造的に意味があり、風力荷重の問題を解決し、竪樋の位置を確保し、建物全体の意図と調和する形態である。スラブの中間に一列に並び、その本数は偶数であり、水平的にも安定し、視線を通し、側面からは同じように見えながら、実際は(特にエントランスの近くにおいて)変化をしており、動線の流れと建物の新たな『有機的』曲線を調和させる、そのようなピロティ」(ウイリアム・カーティス/中村研一訳 『ル・コルビュジエ―理念と形態』)だったのである。
《スイス学生会館》を特徴づけている湾曲した談話室の壁について、これは「ごくありきたりの<乱石積>を使って、仕事を愛するひとりの石工が建てたものである。こうすることで、古くから生きてきた事物が、まったく新しいピロティという骨のように単純かつ力強い、合理的だが多くの点で人を驚かすようなまったく新しい技術によるものと相和することになった」(ル・コルビュジエ/吉阪隆正訳 『建築科の学生たちへの談話』)と語っている。
1933年
スイス
フランス
イムーブル・クラルテ
Immeuble Clarte
鉄やガラスを扱うエドモン・ヴァネールとの協働ですすめた集合住宅で、黒い外観とオレンジ色のシェードが印象的である。
《イムーブル・クラルテ》《スイス学生会館》《ナンジェセール・エ・コリのアパート》の三つには、黒い鋼製の窓枠、スライディング窓、ガラスブロックを使った不透明な表現など、共通する表現が多く見られる。これらに共通するのが、エドモン・ヴァネールである。
《イムーブル・クラルテ》は、ル・コルビュジエが「イムーブル・ヴィラ」(1922)で提案した垂直型の共同住宅の実現第一号であった。
9階建て45戸の集合住宅には、さまざまなプランがあり、二層吹抜けタイプの構成はユニテ・ダビタシオンを想起させる。アパート断面のイメージスケッチ、屋内にむき出しのH型鋼柱や鋼管製手すりなどは船を思わせ、ここにも、豪華客船のイメージからスタートした《ユニテ》との共通点が認められる。床や階段の踏み板はガラスブロックとなっており、階段塔を通してトップライトからの光がどこまでも入るように工夫され、「クラルテ(=光)」という名前のとおり、階段室は非常に明るい。こうしたファサードの処理、ガラスブロックの使用、階段塔の光の処理はそのままパリの自宅アパートへと引き継がれて行く。
1932年
エドモン・ヴァネール氏
スイス
航空館
Pavillon a'aviation S.T.A.R.
フランス
ナンジェセール・エ・コリのアパート(ポルト・モリトーの集合住宅)
Immeuble locatif a la porte Molitor, 24 rue Nungesser et Coli
隣接する建物と同時期に開発された 南隣はM.ルー・スピッツによるアパルトマン(1931年)で、北隣はシュナイダーによるもの(1931年)であり、真ん中に建つル・コルビュジエのアパルトマンは両隣のアパルトマンの既存の壁をうまく利用している。
ファサードを印象づけるのは黒いフレームで縁取られた大きなガラスとガラスブロックによる窓である。
東側にナンジェセール・エ・コリ通り、西側にトゥレル通りがあり、表・裏が生じないように、両方に面したファサードは全く同じ顔をしている。
パラペットの高さ、通り側壁面の一致、バルコニーや柱間の窓の大きさや配置は規則で決められていて、それに従ってデザインされた。
平面はΣ型で、塞がれた部分は中央部が吹抜けになっていて、光を取り入れる塔の役割を果たし、内側の部屋にも光が降り注ぐ。
コルの部屋を見ると、大部分は塗装仕上げだが、アトリエ部分は煉瓦、石積みの壁面を露出させている。
セントラルヒーティング、洗濯&乾燥室、地下のガレージ、使用人用の庭に面した1階と地下の部屋など、「新しい生活をかなえます」と宣言した言葉通りの理想的な設備を整えた。
世界恐慌のあおりをうけ、開発業者からの支払いが不能、居住者が入らないなどの窮地を、友人のピエール・ウィンターやフランソワ・ド・ピエールフウらが助けた。
ル・コルビュジエはこのアパルトマンの最上階と屋上を独占し、片方をアトリエ、片方を住まいとしている アトリエは、煉瓦、石積みの壁面を露出させている 住まいの部分は妻イヴォンヌからのアイデアもとりいれた。
自宅のアトリエはヴォールト天井で、高窓から光が差しこむ。「芸術家の家案」(1922)、「ヴォールト屋根の自宅案」(1929)で同様のアトリエを考えており、ここにおいて彼はついに憧れのヴォールト屋根の家を手に入れた。
1948年、1962年にリノベーションが行われた際、サッシュは取り替えられた。
1934年
ル・コルビュジエ自身も加わったディベロッパー
フランス
ウィークエンドハウス
Maison de Week-end
パリから20キロの郊外に建てられた、こじんまりとした週末用住宅である。
敷地の隅に置かれ、高さは2.6メートル足らずの低いヴォールト屋根の平屋で、木立の中にひっそりと隠れるように建てられた。この週末住宅は、ル・コルビュジエが20年代初頭に提示した住宅の2系列(=モノル、シトロアン)のうちの「モノル」(=連続するヴォールト天井をもつ低層住宅)の実現である。
屋根は鉄筋コンクリートのヴォールト、その上を土で覆い草を生やし、地面にうずくまるように建てられた。壁は珪石積み、ガラスブロックと透明ガラスを用いてつくられている。
室内を見ると、天井には合板が用いられ、壁は石積みに白石灰仕上げ、合板張り。暖炉と煙突は煉瓦積みとなっている。室内の大テーブルには緑縞の白大理石、床は白タイルで仕上げられている。
30年代以降に見られるようになった、自然素材を用い大地に根ざしたル・コルビュジエの新しい建築傾向が明確に表現されている。石や煉瓦は、戦後の作品ではコンクリートと組み合わせて用いられるようになり、さらに、あたかも石のような粗い表情をもたせたコンクリートによる力強い建築へとその系譜は受け継がれていく。
表通りから門越しに、その外観はわずかしか見えないが、現在では、ガラスブロックは無く、石壁に窓が開き、装飾的な手摺りが付けられ、屋根はヴォールトであった面影もなく改築されてしまった。
1935年
アンリ・フェリックス氏
フランス
六分儀の家(レ・マトゥの家)
Villa "Le Sextant" Maison aux Mathes
大西洋岸の避寒地に立つ別荘。
別荘といっても砂丘に建つ現地産の材料とスレート葺の屋根という、いかにも「海の家」といった方が良いような建物である。
注目すべき点はV字型屋根とその折れるところに付くガーゴイル(水落とし)。それはそのまま20年後にチャンディガールの《高等裁判所》と《ロンシャン礼拝堂》に繰り返される。
V字型の屋根については、「屋根の傾斜が伝統的な小屋組でないことが見られよう。その勾配が中央に向かっていて、大きな樋に集められる。」とル・コルビュジエ自身が作品集の中で書いているように、仰ぎ見るように傾斜のついた屋根が、 この作品において重要な要素となっている。
1935年
フランス
新時代館
Pavillon des Temps Nouveaux
1937年のパリ万博にル・コルビュジエは《新時代館》をもって自主参加した。この万博では、ル・コルビュジエの弟子である坂倉順三が設計を手がけた「日本館」が、建築グランプリを受賞している。
エントランス側30m×側面35m×高さ15m。内部は最大3層。アンカーからワイヤーで張った鉄骨に、テントが張られている。
このパビリオンは非常にカラフルであり、テントは青く、入口周りは白、入口天蓋は赤い布が張られていた。さらに内部の壁面の色彩は、入口を入ったところの壁は真赤、左壁は緑、右壁は濃いグレー、入口の壁は青。地面は明るい黄色の砂利。天井は強い黄色であったという。
巨大なテント状のパビリオンで、エントランスは後年よく用いられた飛行機の翼のような構造。中心の軸で回転する扉に、張り出した庇が特徴的である。柔軟な骨組みやケーブルによる繋留の仕組みは、のちの《ロンシャン礼拝堂》《フィルミニ青少年文化の家》などで繰り返されることとなる。
「現代の都市計画の可能性を<大衆教育の博物館の試み>として創作し、組織だて、展示館を建設する。このかなりな展示館(15,000㎥)は布で出来ていて、壁と屋根だけがある。屋根は1,200㎡が1枚に縫い合わされて、一挙に張られる。ケーブルと細い鋼のやぐらによる、柔軟な大胆きわまりない構造である。」(『全作品集 第3巻』吉阪隆正訳)
内部は2フロアに分かれ、奥に講演会用のスペースが設けられている。大きなニュートラルな空間の中を、歩きながら展示を体感する構成は、彼のテンポラリーな展示施設の一つの典型である。
内部には都市計画の歴史や、「パリ計画37」(=今すぐなくすべき旧城内のパリ整備の提案)、農業改革、CIAM(=現代建築国際会議)の憲章などが、大型壁面パネルで展示された。
1937年
ル・コルビュジエ
フランス
失業青少年のための再教育センター
Centre de réadaptation des jeunes chômeurs
フランス
科学技術センター
Centre scientifique de la Main-d'oeuvre
フランス
マルセイユのユニテ・ダビタシオン
Unite d'Habitation, Marseille
ル・コルビュジエは戦後の都市復興に関わりたいと働きかけ続けたきたが、その機会は得られなかった。そのとき、復興大臣ラウル・ドトリーからの直接の依頼を受けたのが、港湾都市マルセイユにユニテを建てることだった そして、これはル・コルビュジエにとって初めてのフランスでの公共の仕事であった。
マルセイユはル・コルビュジエにとって「ホメロス的な景観、地中海を通じた人的・物的交通の到着点、文化と技術交流の交差路」であった 敷地は二転三転したのち、ミシュレ通りに面した約3.7haの四角い敷地に決定した。ミシュレ通り側(東側)と海側(西側)が主要なファサードとなっており、各住戸のロジア側壁の色彩が快活な印象を与え、打ち放しコンクリートの外観に躍動感を与えている 南側にもロジアや窓があるが、北側は窓のないコンクリートの壁である。
緑地の真ん中に太陽を浴びてそびえる《ユニテ》は、「鉛直方向の庭園都市」や「豪華客船」のコンセプトを実現し、彼が考案してきたさまざまなアイデアの統合である。
長さ135.5m、幅24.4m、高さ56mの巨大な箱は、主構造、基礎、支柱、人工床盤はすべて現場打ちの鉄筋コンクリート、ファサードやロジアのパネル類はプレハブで作られており、基準となっているのは、人体寸法を元にした尺度「モデュロール」であった。
地上を解放し、設備類を収めたピロティの層(1層)、商店(食料品店、レストラン、郵便局など)が入る中間層(8層)、幼稚園やジム、プール、屋上庭園、屋上をぐるりと走れるコース、演劇や集会をするための舞台がある屋上(17層)の間に、23タイプ337戸の住戸が収められた。生活に必要な機能を備えている適正な規模の住まいの単位であることから、「アパート」ではなく、「ユニテ・ダビタシオン(Unité d’habitation)」と名付けられ、その後の集合住宅の原点となった。
なお、ピロティの上、本棟の床下部分の層は空洞となっており、設備関連一式がその部分に収められている そのため、太いピロティの脚はユニテを支えているだけでなく、内部はパイプスペースとなっており、電気をはじめ、さまざまな配管が入っており、メンテナンス時にはこの中に入って作業する。
インテリアはシャルロット・ペリアン、ジャン・プルーヴェとの協働である。
代表的なメゾネットタイプ・・・・薄暗い中廊下に面した玄関から入ると、太陽の陽射しが一気に差し込んでくる。キッチンの先に吹き抜けのリビングがあり、住戸内階段を上がると、上階には、吹き抜けに面した主寝室、そしてバスルーム、子供部屋が配されている 東西両方に開いているため、それぞれの方角から午前中と午後の眩しい地中海の太陽を享受できる 各住戸の全面ガラスはオーク材の枠がついた開き戸で、ロジアは部屋の延長部分として利用される。
1952年
フランス復興大臣
フランス
サン・ディエのデュヴァルの織物工場
Manufacture, Usine Claude et Duval
ル・コルビュジエが手掛けた唯一の工場。
施主は、チューリッヒ理工科大学出身のエンジニアで、ル・コルビュジエの長年の友人であるジャン・ジャック・デュヴァル氏である。
彼は故郷サン・ディエ(フランス北東部)が戦争で被災したことを受け、ル・コルビュジエに街の再建を頼もうと尽力するが、反対を受けて実現には至らず、そこで、デュヴァル家が営んできた織物工場の再建をル・コルビュジエに依頼することとした。
建物は全長80m、幅12.54m、高さ18mである。妻壁は53cmの厚みがあり、ここには旧工場で使われていた石が再利用されている。
1階には駐車場と管理人室があり、作業室・倉庫はピロティの上に建てられ、最上階には屋上庭園と事務室が設けられている。
ル・コルビュジエがつくった独自の尺度「モデュロール」が、寸法を決定するために採用されている。
この時期、ル・コルビュジエは多忙でアトリエを留守にしていたため、所員であったアンドレ・ヴォジャンスキーが中心となって、デュヴァルと打ち合わせを交わして設計をすすめた。
街の日照を検討したうえで、特徴的な「ブリーズ・ソレイユ」(日除けのルーバー)を提案したのはヴォジャンスキーである。
1952年
デュヴァル氏
フランス
クルチェット邸
Maison du Doctueur Curutchet
4層からなる住宅および診療所は、医師のペドロ・クルチェットとその家族のために建てられた。医師クルチェット博士が、診療所兼住宅の設計を依頼したが、ル・コルビュジエとの直接のやり取りはパリにいた博士の姉が行い、地元の建築家アマンシオ・ウィリアムスが現場を担当した。結局、ル・コルビュジエは一度も現地を訪れなかった。
緑に覆われた公園と19世紀に計画されたラ・プラタの大通りに面し、この通りによって正面が60度に切り取られ、三方を新古典主義様式の既存の建物で囲われた敷地に建っている。
サヴォア邸の20年後に計画された《クルチェット邸》は「新しい建築の5つの要点」および、スロープといったル・コルビュジエ特有の建築的要素からなっている。
1階がエントランス、車庫、中庭 / スロープ折り返しの踊り場(中2階)が居住部のエントランス / スロープを上がった2階が診療所 / 3階と4階が住まいという構成である。
ピロティは通りに面した診療所を持上げ、車庫の空間を作っている。正面扉を入ると、中庭に育つ1本の樹木とそれに対応するかのような等間隔ではなく林立する柱の空間と彫刻が置かれた中庭が現れる。そこは外部の明るさとは対照的な光と影の演出であり、その空間をスロープが横切っている。スロープを登ると、光と影、内部と外部が生み出す対比的な空間に、ル・コルビュジエの建築的プロムナードの詩的な力を感じることができる。スロープは診療所と住宅双方への巧みな個別のアクセスとなっていて、公私の空間をうまく分離させ、上階における住宅のプライバシーは守られている。住宅部分には2.26mとその2倍の天井高をもつリビングの空間、そして緑あふれる景色を切り取るキャノピーへと空間が開ける。食堂、寝室、下階の診療所はすべて、太陽の向きと外の景色を考慮しながら方向が決定され、最大限にランドスケープを享受できる建物となっている。
太陽の動きを考慮し、北向きの強い陽射し(南半球のため、北向きは日当たりが良い)を調整するために、建物前面には鉄筋コンクリート製の日除け(ブリーズソレイユ)が取り付けられ、正面部分の奥行を巧みに操作し、屋上庭園には半分に背の高いパラソル屋根がついている。
現在は地元の建築家協会が管理している 映画『ル・コルビュジエの家』(2012年日本公開)は、この住宅が舞台となって物語が展開している
1955年
クルチェット博士
アルゼンチン
ロンシャンの礼拝堂
Chapelle Notre Dame du Haut, Ronchamp
「建築の魂は、ヴォリューム、リズム、光と影に在ります。昨今の技術革新は、私を建築全般についての深い考察へと導きました。そして今、精神性を宿す建築に大きく惹かれています」とル・コルビュジエは1945年に語っている。彼はカトリック信者ではなかったものの、このときすでに教会建築を引き受ける下地がすでにできていたといえよう。
ロンシャンは古くから巡礼地として知られ、大巡礼の際には数千人が丘を登って、この地を訪れる。それが1944年の空爆で破壊され、村では再建を望む声が上がっていた。この再建のために依頼されたル・コルビュジエは、「偉大な建築家が必要であり、あなたは調和、人間の精神、幸福を常に考えている」とのクチュリエ神父からの後押しもあり、この教会建築に取り組むことを決意した。
すべてが曲面からできている、カニの甲羅のような、あるいは、帽子をかぶったような不思議な形をしたこの教会は、その小さい白い姿を丘の頂きに現し、人びとはそれを目指して歩いていく。この礼拝堂を印象づける、南東方向に向かって突き出して尖った屋根の形態は、ル・コルビュジエの後期絵画によく登場する、「角」や「翼」のモチーフを連想させる。そして、大きな塔と屋根の形を側面から見ると、その輪郭は、聖母マリアに祈りを捧げるこの礼拝堂にふさわしく、彼が描いていた「子を抱く母親(=聖母子像)」のスケッチを思い出させる。彼は「沈黙、内面的な祈りの場」をつくったと語っているが、光と色彩に満ちた空間には、「えもいわれぬ」美しさに満ちている。
鉄筋コンクリート造ではあるが、壁には破壊された折に残された旧礼拝堂の煉瓦や石材が用いられている。
最初に目に入る南面は大きく湾曲し、壁には多くの穴が開けられ、この開口から色ガラスを通した光がランダムに拡散する。また、3つの塔内部の小祭壇には、トップライトからの官能的なまでの光が降り注いでくる。光と影が荘厳で神聖な空間を作り出している。
祭壇上部に安置されている戦災をまぬがれた聖母子像は、年に一度の大祭の際にはぐるりと回転して、東側の屋外祭壇を方を向く仕掛けとなっている。
屋内には祭壇、小祭壇、告解室があり、床の石の割り付けはモデュロールによっている 椅子はル・コルビュジエと彫刻を共同制作しているジョセフ・サヴィナによるもので、祭壇のデザインはル・コルビュジエ本人による。
おおきく膨らみ、垂れ下がった重そうな屋根は、じつは飛行機の翼と同様、中が空洞で、軽い作りとなっている。
1955年
フランス
チャンディガールの一連の建築 キャピトル・コンプレックス
Complexe du Capitole, Chandigarh
第二次世界大戦後のパキスタン分離独立によって、インド北西部のパンジャブ州には、新しい州都を建設することとなった。
インド政府は別の建築家チームに依頼したが、主任建築家が事故死したことから、新しい建築家を探さなくてはならなくなり、そこで白羽の矢が当たったのがル・コルビュジエであった。
1950年に要請を受けたル・コルビュジエは、翌年から1964年の間、何度もインドを訪れて、マクスウェル・フライ、ジェーン・ドリュー、ピエール・ジャンヌレとともに、全体計画(公共交通、ゾーニング、各セクターの建築など)からキャピトルの各建築の設計に力を注いだ。
植栽計画に力を注いだチャンディガールは、現在では「ガーデンシティ」ともよばれ、インド屈指の緑にあふれる都市に発展した。

インド政府
インド
開いた手
Main Ouverte
キャピトルの「思慮の谷」と名付けた一角に建てられたモニュメント。
「開いた手」はあらゆるものを与え、受け止めることを意味し、ル・コルビュジエはこれをチャンディガールのシンボルとした。
1965年
インド
美術学校と建築学校
Ecole d'Art et d'Architecture
2つのカレッジのレイアウトは似ている。 スタジオと教室は、中庭のまわりに配され、建物には強烈な日差しを避けて北からの光が入るようにされている。ル・コルビュジエは、こうした学校施設と博物館は、インドで一般的な赤褐色のレンガで造ることとした。1965年
インド
繊維業者会館
Millowners' Association Building
Palais des Filateurs
チャンディガールのほかに、ル・コルビュジエはアーメダバードにおいて建築を手掛けている。アーメダバードは繊維業で栄えている街で、そこの繊維業者たちが集う会館の設計を依頼された。
東側は大きな川に面しており、西側ファサードに駐車スペースとエントランスが設けられている。
大きな塊のような建物であるが、ファサードに窓ガラスは見当たらず、建物本体の前面についた軒の深いブリーズソレイユが陽射しと風を調整している。
長い滑り台のようなスロープが、エントランス側のファサードに変化をもたらしている。
1956年
繊維業組合
インド
ジャウル邸
Maisons Jaoul
戦後、パリに建てられた《ジャウル邸》は、ヴォールト屋根をもち、煉瓦とコンクリートによって建設された住宅であり、モノル型住宅の《ウィークエンド・ハウス》からの展開が見られる。
A棟とB棟の2つの住戸から構成されたこの住宅には、ル・コルビュジエの「対比表現」に対する関心の高さが窺われる。
同型の直方体をL字に配することに始まり、建物はコンクリート、レンガ、木の色の違いだけでなく、異質な材料が隣接するテクスチャーの併置効果もみられる。手すりのない階段、色鮮やかな配管など同時期の《サラバイ邸》《ショーダン邸》《ラ・トゥーレット修道院》などとデザイン面で共鳴している。
1955年
ジャウル家
フランス
サンスカル・ケンドラ美術館
Sanskar Kendra Museum
ル・コルビュジエは美術館デザインについてファサードのない「成長する美術館」という確固たる考え方を持っていた。
それは柱間7mで東西南北7x7スパンの50m四方の建物を想定している。真中に3スパンの中央ホールを持ち、来場者は一旦そこに入り、そこから周りに展開する2スパンの展示空間を巻貝のようにぐるぐるとらせん状に歩く。側面には開口部を取れないが、光は上部から採ることで解決する。
このタイプの美術館は3ヶ所で実現された。そのうち二つはインドでつくられた。一つ目が、綿織物業の大富豪一族によるアーメダバードの《サンスカル・ケンドラ美術館》であり、二つ目が新都市チャンディガールでの美術館である。そしてもう一つは《国立西洋美術館》である。
さらに、アーメダバードでは屋上に周りが植栽された深さ40cmの水張りがあり、地上部分でも中庭に池が設けられ、これらが冷却器の役割を担うようになっている。アーメダバードで同時に進行していた《サラバイ邸》の屋上も同じように、雨水の排水溝が走り芝生で覆われ、庭に池を設けているのと共通している。また、チャンディガールの美術館でも前庭に池が設けられている。
1959年
インド
カップ・マルタンの休暇小屋
Cabanon Le Corbusier
コートダジュールきってのリゾート地ニースからイタリア国境に向かって少し行った小さな岬カップ・マルタンの付け根の集落がル・コルビュジエのお気に入りであった。ここにル・コルビュジエが妻イヴォンヌへのプレゼントとして作ったのが《休暇小屋》である。
人体寸法と黄金比を元にしたル・コルビュジエ・オリジナルの尺度「モデュロール」を用いた、こじんまりとした10畳ほどの小屋。高さの違う什器が効果的にらせん状になるように配置されている。内装はベニヤ、外装は丸太 室内はカラフルに彩色されている。
70×70㎝角の窓が2つ、70×30㎝の窓が一つ、換気用の縦長の窓が2つあるだけで、開放的というよりは隠れ家のような空間である。
K・フランプトンは窓の扱いに注目している。北側はベッドの高さのところに細長い片開き。東側は洗面の横に両開き。南側は内側の鏡が景色を内に取り込み、座った位置から仰ぎ見る視覚だ。切り取る風景画が方角と目線の高さを違えて見せる演出をしている。
隣接する居酒屋「ひとで」とは、屋内の扉で両者はつながっているのだが、これは《休暇小屋》には台所が無く、食事は「ひとで」で摂っていたためである。
小屋の下には、ル・コルビュジエが大変気に入っていたアイリーン・グレイ設計による海辺の家《E1027》があり、彼は勝手にここに壁画を描き、グレイから非難されていた。
1957年にイヴォンヌが亡くなってからは、一人で訪れていたが、1965年8月27日、ル・コルビュジエはここの下の海岸で海水浴中に心臓麻痺をおこして亡くなった。
1951年
ル・コルビュジエ
フランス
サラバイ邸
Maison d'habitation de Mme. Manaorama Sarabhai
サラバイ未亡人とその二人の息子のための住宅である。
構造はカタロニア式のヴォールトで、天井に貼られた煉瓦の赤茶色が、床のマドラス産の黒い石と美しい対比を見せている。
しかし、屋根はヴォールトをコンクリートで平らに覆った陸屋根としている。屋上は緑にあふれた庭園となっていて、現在では屋根を草花の緑が覆い尽くしているほどである。ル・コルビュジエの住宅建築のなかで、この住宅ほど、緑のなかに包まれている感じがするものは他にないのではなかろうか。
また、庭に設けられたプールや、屋上の水路は、涼しい空気を運び、コンクリートを熱から守るという、水の効果が工夫されたものである。
「モノル」にはじまったル・コルビュジエの薄く軽快なヴォールトは、洞窟的空間像に回帰して作品に現れ、《ウイークエンド・ハウス》《ナンジェセール・エ・コリのアパート》《ジャウル邸》《高等裁判所》などに使われる。そして、《サラバイ邸》において、インドならではの半屋外空間が大切に表現され、人や風や、すべてが通り抜けていくトンネルのような住宅が完成したのである。
1955年
サラバイ夫人
インド
ショーダン邸
Villa Shodhan
アーメダバードに建てられた《サラバイ邸》《ショーダン邸》の二つの住宅は、「モノル」型(うねうねと水平に続いていくタイプ。女性的)、「シトロアン」型(塊として上へ伸びていくタイプ。男性的)という、ル・コルビュジエが1920年代に提唱していた二つの代表的な住宅のタイプを実現したものである。
コンクリートの塊に穴が開いたかのような壁面と、大きな穴が開いた傘状の屋根が見える《ショーダン邸》は、一見、欠陥住宅のようにも見えるだろう。しかし、これらは風塵を除けるための窓でも雨よけのための屋根でもなく、直射日光を遮り、風を通すための工夫なのである。これらはインドの気候を生かし、伝統的な半屋外空間をうまくアレンジしたつくりとなっている。建物のコアの部分にブリーズ・ソレイユと傘状の屋根を付与したのが、この《ショーダン邸》の全体像なのである。
また屋内は全体で5層の住宅ではあるが、屋内に斜路が設けられ、メゾネットタイプの部屋が3つあり、平面も立面も実に複雑でありながら、見事な収まりを見せている。
1956年
ショーダン氏
インド
ユニテ・ダビタシオン(ナント・ルゼ)
Unite d'Habitation, Reze
ル・コルビュジエはマルセイユのほかに4ヶ所で「ユニテ・ダビタシオン」を建設している。
いずれのユニテもマルセイユと同様で、ピロティで持ち上げられた巨大な集合住宅、というスタイルであるが、ピロティはコンクリートによる単なる板状の柱以外の何ものでもなく、マルセイユで見られたような、肉感的な形態をもち、造形的な力強さを感じさせるものではなくなっている。
ル・コルビュジエ本人がユニテの設計に携わる割合が減っていくにつれて、ダイナミックさに欠けた建物になってしまうのは仕方ないことだったのかもしれない。
《ナント・ルゼのユニテ》は、敷地内にあった池を利用し、ピロティの脚を池に突っ込んだような形で建てられている。
フランス
高等裁判所
Haute Cour
(Palace of Justice)
チャンディガールで最初に構想され、実現した建築である およそ130m×70m×高さ20mの直方体で、8つの小法廷と1つの大法廷が、それぞれ傘状屋根のアーチの下に配されている。
高等裁判所は、鉄筋コンクリートによる造形に対して積極的に新しい可能性を示したものであり、この建物は正面から見るとヴォールトが連続するイスラムやインドのグジャラート建築を思わせる。しかし、よく見るとこのヴォールトは東西にばかりではなく、南北にも走っている。それはホールにある巨大な板状柱と屋根の接合部がVの字になっていることで明示されている。建物は方形をしているが、その下にV字型の屋根が隠されている。
巨大なコンクリートの柱に支えられる傘状の大屋根、垂直性を示すエントランスの大柱、その奥には空間を斜めに切る長大なスロープが現われ、ダイナミックな大空間の造形が強調されている。そして、エントランスのポルティコの色彩や、各法廷に掛けられた極彩色のタピスリーが、灰色のコンクリートの建築を生き生きとしたものにしている。
1955年
インド
チャンディガールの美術館
Government Museum and Art Gallery, Chandhigarh
チャンディガールの美術館は、ル・コルビュジエが設計した三つある美術館のうち最後のもので、完成は1968年なので彼の死後となる。1968年
インド
合同庁舎
Secretariat
合同庁舎は、州都に必要な省庁を一つにまとめた建物である。
初期案では高くそびえるビルだったが、他の建築物との調和を鑑み、全長254m、高さ42mの巨大な壁のような建築となり、その存在感で、広々とした草原のような場所にあって異彩を放つ。
8層からなる6つのブロックがエクスパンションジョイントで結ばれ、外部に突き出た2か所の大きなスロープは、3000人の職員たちによる建物内の上下移動の混雑緩和に役立っている。
ファサードは奥行きの深いブリーズ・ソレイユがリズミカルな表情を作り、建物に収まりきれなかったスロープが外に飛び出している。高等裁判所では入口ホールの後に柱の林立とともに巨大な斜路が納まり、議事堂でも真ん中の筒の横に斜路が置かれている。しかし合同庁舎では斜路はついに建物に収まらず、外に飛び出した格好である。
屋上は「ユニテ・ダビタシオン」と同様、散策路を備えた屋上庭園となっている。
1958年
インド
ラ・トゥーレットの修道院
Couvent Sainte-Marie de la Tourette
《ロンシャンの礼拝堂》にも関わったクチュリエ神父からの依頼によって、ル・コルビュジエは再びカトリックの施設に取り組むこととなった。
修道院という施設は、修道僧が集団生活をする住居という生活の場と、学び、静かに祈り思索する宗教的な場という、二つの役割をもつ。13世紀に確立されたドミニコ会の決まりに従ったプログラムが求められ、100の僧房と図書室、研究室、会議室、食堂、教会などからなり、北側に礼拝堂が位置し、その南側にそれ以外の施設が、中庭を囲んで「コ」の字型に配され、全ては回廊でつながっている。《ラ・トゥーレット》は《ロンシャン(礼拝堂)》と《ユニテ・ダビタシオン(集合住宅)》での経験を生かし、それらを統括して作り上げた作品である。
ル・コルビュジエは、クチュリエ神父に勧められて見に行った《ル・トロネの修道院(南フランス)》だけでなく、《エマの修道院(イタリア)》、アトス山(ギリシャ)の修道院、ガルダイア(アルジェリア)のモスクなど、かつて訪れたことがあった宗教建築を参照にしたと思われる。
ピロティで持ち上げられた5階建てだが、敷地が急な斜面のため、もっとも高い東側にエントランスを置き、ここが3階にあたる。このフロアをはさんで上下に展開する構成となっている。ピロティは全体のボリュームに対して、個々の脚は細く、数が多く、斜めのアーチ状の形をしているものもあり、中庭に入ると、樹木に囲まれたように感じられ、森を見上げるところに修道院が建っているような印象を与える。礼拝堂棟のみピロティをもたず、コンクリートのマッシブな塊が、緑の斜面にどっしりと腰を据えていて、ピロティ部分との違いを際立たせている。
《ラ・トゥーレットの修道院》では随所に対比の面白さを見ることができる。
コンクリートは表面には石をはめ込んで、ざらざらな仕上げになっていて、ガラス面との差が際立っている。さらに、ところどころアクセントで用いられた原色が目を引きつける。
ここではさまざまな形の窓があるが、市松模様に開けられた正方形の窓、水平方向に伸びる廊下部分の細長いスリット、幅の違う縦の細い桟が入った幾何学的な窓の割り付け(波動的なガラス面)などが、垂直・水平の対比を強調している。これらはモデュロールの寸法を使った窓割りが生んだリズムであり、同様に礼拝堂内部では床、壁、天井において、コンクリートの目地割りが異なるリズムを生みだしている。
礼拝堂は大きな四角いコンクリートの箱だが、祭壇には朝、昼、夕方と異なる方角からの光が差しこみ、さらに「光の大砲」「光の機関銃」と呼ぶトップライトからの光が壁面に塗られた色彩と相まって静謐な祈りの空間を生み出している。
一方、修道士たちの部屋は実に簡素である。必要最低限のものしか持たず、祈りと学問に生活を捧げる、彼らの静かな暮らしのためにル・コルビュジエが用意したのは、モデュロールの寸法によってつくった質素ながら落ち着く空間であった。
1958年
フランス
ブラジル学生会館
Pavillon du Bresil
ル・コルビュジエだけでなく、《スイス学生会館》と同じ「パリ大学都市」の敷地内に建っている。
《ブラジル学生会館》はあまり取り上げられない作品であるが、その理由は、この作品には新しい試みが見られないことや、もともと設計を依頼されたルチオ・コスタがル・コルビュジエに相談したところ、ル・コルビュジエが設計変更をし、ついにはコスタが手を引いたという経緯があるからと思われる。
この建物を設計しているときル・コルビュジエは《ラ・トゥーレット修道院》を手がけていたせいか、デザインにその影響が随所に見られ、寄宿舎棟はユニテの小型版と言ってよい。ほかにも、《ロンシャンの礼拝堂》や《スイス学生会館》《サヴォア邸》などのデザインを想起させるような部分もあり、ル・コルビュジエが好んだ形があちこちに現れている。
ごつごつした石とコンクリートで構成された外壁の一部には黄色、緑、青、白、黒、赤といった鮮やかな色が置かれ、屋内でも壁のあちこちに原色が用いられ、艶やかな黒い石の床に反射している。この時代のル・コルビュジエの特徴的な色使いを見ることができる。
1959年
フランス
文化の家
Maison de la Culture
フランス中部、大都市リヨン郊外に位置する、再開発が望まれていたフィルミニ市に、市長として就任したのが戦後の復興大臣でありル・コルビュジエと交友のあったクロディウス・プティ氏であった。当時開発をすすめようとしていたのが、旧市街と新市街を結ぶ、すり鉢状のエリア「フィルミニ・ヴェール地区」であり、プティ市長はル・コルビュジエにここにいくつかの建物をつくることを依頼し、《文化の家》《スタジアム》《サン・ピエール教会》《ユニテ・ダビタシオン》が実現した。そのなかで《文化の家》が世界文化遺産に登録された。
全長112mの細長い建物で、各7mのブロックが16スパン続く形状となっている。屋根は132本のケーブルで支えられ、その上に10センチ厚のコンクリートで覆いをし、屋根としているため、側面からは張り出した先端部分を頂点に描かれた放物線が作り出す、緩やかなU字型となっている。そして、隣接するスタジアム側にせり出し、下から見上げると上に反り返ったように見える。
鋭角ではないのでV字とはいえないが、側面のその凹んだ部分に水落としが付いているのは、《レ・マトゥの家》《ロンシャン礼拝堂》《高等裁判所》などと同様である。
サブグラウンドに面した側は、モデュロールによってリズミカルに窓割りされ、挿入された色によって軽快な印象を与える。一方、妻側はコンクリートで塞がれ、浮彫が施されている。
ル・コルビュジエは何度もフィルミニに訪れたが、最後の訪問は亡くなる3か月前(1965年5月)であり、その後は弟子のヴォジャンスキーが後を継いだ。
1966年
フィルミニ市
フランス
ル・コルビュジエの墓碑
Tombe de La Corbusier
ル・コルビュジエと妻イヴォンヌが眠る墓は、《休暇小屋》を建てたロクブリュンヌの高台の共同墓地の中にある。
墓碑のデザインは、生前ル・コルビュジエ本人が手掛けたもので、三角柱を横に倒したような形をしている。眼下に広がる地中海をイメージしたカラフルなエマイユで前面が彩られ、そこに先に亡くなった妻の名前と生没年がル・コルビュジエの手書き文字で記され、加えてル・コルビュジエの生没年が彼の没後記されている。墓の敷地内には十字や貝殻の型押しがあり、あたかも「ル・コルビュジエ巡礼」の聖地のような印象を与えている。

ル・コルビュジエ
フランス
バクラ・ダム
Barrage
インドで作られたダム。切手の絵柄にもなっている。1969年
インド
国立西洋美術館
Musee National des Beaux-Arts de l'Occident
日本に残されたル・コルビュジエ唯一の作品である。
戦争中、フランスに残されていた松方幸次郎氏の「松方コレクション」が、フランスから日本に返還されるにあたり、条件として提示されたのが、コレクションを収蔵展示するための美術館の建設であった。
ルーヴル美術館のジョルジュ・サール館長の助言を得て、ル・コルビュジエが設計者に決まり、ル・コルビュジエが基本設計を行い、弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正らが実施設計、監理を担当した。ル・コルビュジエは敷地を見るために一度だけ来日を果たしている(1955年11月)。
ル・コルビュジエは美術館建築に強い思いを抱いており、1920年代からさまざまな美術館計画案を提示してきたが、実現したのはチャンディガールとアーメダバード、そして上野の3館だけであった。いずれも、建物の中心から巻貝の殻のようにらせん状に広がっていく回廊状の展示室を置き、収蔵品が増えれば外側に増築できる「無限成長美術館」を基本としている。
ル・コルビュジエは、松方コレクションのための美術館だけでなく、実験劇場や企画展示施設、図書館、講堂、観客休憩所などからなる「芸術文化センター」的なものを構想していたが、収蔵作品を展示するための美術館以外は実現にはいたらなかった。
およそ40m四方の美術館は、足元をピロティによって支えらえている。直径60センチの柱は力強く、型枠に使用したヒメコマツの木目が本物の樹木を思わせるように美しい。さらに小石をぎっしり詰め込んだ外壁はあたかも菓子の「雷おこし」のような表面であり、外壁のコンクリートパネル、柱には、コンクリートの表情の多様さを見ることができる。
半屋外空間のピロティから中に入り、中央の「19世紀ホール」が展示空間のスタートである。ここにはル・コルビュジエ本人による写真壁画を予定していたが、時間切れで実現できなかった。ここでは北側を向いた吹き抜けの高いトップライトからの柔らかな自然光のもとで彫刻などを鑑賞した後、ゆるやかにスロープを進み、ホールを見下ろしながら、低い天井を抜けて2階の展示室へと入っていく。
2階の展示室は、角を曲がるごとに狭い空間や高い空間が現れ、ところどころではホールを見下ろすバルコニーがあり、また、外を眺められるベンチのコーナーがあるなど、変化に富んだ空間である。寸法はモデュロールで決められ、低い部分は226cm、高い部分はほぼその2倍の高さである。
低い天井の上の、ガラスに囲まれた部屋状の部分は、トップライトからの自然光を効率よく展示室にもたらすための「照明ギャラリー」だが、自然光の紫外線は作品に悪影響を及ぼすことから、現在は人工照明を中に入れている。
1959年
日本国
日本
州議会議事堂
Palais de l’Assemblee
(Assembly Building)
大きな作品が点在するチャンディガールのキャピトルの中でも、「州議会議事堂」はポーチ部分の反り返った屋根といい、円錐形の屋根といい、コンクリートの迫力ある造形の故にとくに強い印象を与える。
正面玄関手前のポーチ部分に重くかぶさる屋根は、牡牛の角のごとく力強いU字型の断面をしている。これは30年代以来のV字型屋根のバリエーションだろう。
さらに、議場本体の屋根を見てみると、頂部を斜めに切り取った双曲線曲面板の塔となっていて、それがマッシブな直方体に無理やり嵌め込まれたような形をしている。この形は、発電所のクーリングタワーを参照したとも言われるが、元をたどると、パネルにあるル・コルビュジエが若い頃過ごした地元農家の様式である、「寿命を縮める部屋」(=煙突兼部屋)の姿との関連性をH.A.ブルックスは指摘している。
この形態は、意外にもサヴォア邸にその起源があるのではないだろうか。長方形に円筒が載ったサヴォア邸の断面スケッチがある(「プレシジョン」)。他に西側ファサードに細長い階段のついたスケッチもある。それらを見てみるとル・コルビュジエの発想の震源に触れたような気がする。A・ブルックスは、採光搭は故郷の農家にある煙突部屋だと語っている。
ル・コルビュジエは発電所の冷却塔を見たとき、その形を使おうとひらめいた ただの煙突は彼によって空から降り注ぐ力強い太陽の光を受け止め、空へと開かれた下院議場の塔となり、100m四方の箱の真ん中から突き出した また上院議場はピラミッド状の屋根をもつ 建物前面には、反り返った半筒状の大庇の下に列柱が並び、暗がりの中からエナメル板による扉絵が鮮やかな色彩を放っている
1964年
インド
ユニテ・ド・キャンピング
Unite de camping
《休暇小屋》はルビュタト氏が営むビストロ「ひとで」に隣接して建てられたが、地中海に向かうこの傾斜地を気に入っていたル・コルビュジエは、近くの土地でバカンス客目当ての大型リゾートマンションのような施設をつくろうと計画した。結局、実現には至らず、最終的に「ひとで」のすぐ隣に小さな宿泊施設をつくるにとどまった。
モデュロールの寸法を用いて作られた宿泊施設は、各部屋にはベッドが2つ、洗面台、収納棚、海に向かって開かれた窓があるだけのこじんまりとした空間で、トイレは兼用、シャワーは屋外、といういたって簡素な木造のキャビンである。

ルビュタトゥー氏
フランス
ユニテ・ダビタシオン(ブリ・アン・フォレ)
Unite d'Habitation, Briey-en-Foret
フランス
バグダッドのスタジアム
Stade, Bagdad
イラク
ユニテ・ダビタシオン(ベルリン)
Unite d'Habitaion, Berlin
ティアガルテンで開催されたインターバウ博覧会を機に、シャーロッテンブルクのオリンピック・ヒルに《ユニテ・ダビタシオン》を建て、滞在のデモンストレーションを行い、 400戸におよそ2000人が滞在した。ベルリンの《ユニテ・ダビタシオン》は、先行する《ユニテ》の経験をふまえ、機能的なだけでなく、美しい比例を見ることができる。ベルリンという場所柄からか、外壁の色彩は抑え目は配色である。1958年
ドイツ
フィリップス館
Pavillon Philips, exposition internationale de 1958
1958年の「ブリュッセル万博」に出展した世界的に有名な電器メーカー、フィリップス社のためのパビリオン。フィリップス社は、万博でのパビリオンを自社の商品を観客に見せるショーケースとしてではなく、社のイメージを提示する空間と考え、世界的に著名な建築家であるル・コルビュジエにプロデュースを依頼した。そこでル・コルビュジエは、パビリオンの建築だけでなく、内部で展開する音と映像のプログラムを制作することを提案し、大胆なフォルムのパビリオンと、刺激的なショーが実現した。
鉄骨にワイヤーを張り、コンクリートパネルで仕上げる構造で、複雑なフォルムを軽やかに演出している。このパビリオンの設計にはクセナキスが大きな役割を担った。
音と映像のショーは、エドガー・ヴァレーズによる音と、ル・コルビュジエがセレクトした画像を、アゴスティーニとル・コルビュジエが編集したものである。彼らが協働で制作した「電子の詩(Poeme d’Electronique)」は、内部の湾曲した壁の数ヶ所に投影された。メインの映像はモノクロだが、同時に、赤、青、緑などの点滅するスポットライトが当てられた。観客は映像と音楽に取り囲まれる強烈な空間を体験した。
ル・コルビュジエによるフォトコラージュの映像は、思いもよらないものが集められ、組み合わされた。人類の道具、歴史といったテーマ自体が、フィリップス社からのメッセージとなっている。7つのセクションに分かれ、それぞれ、「起源」「物質と精神」「黎明期」「神は人間を創造した」「人間は彼の世界を築いた」「調和」「子孫の運命」というタイトルがつけられている。
1958年
フィリップス社
ベルギー
ユニテ・ダビタシオン(フィルミニ)
Unite d'Habitation, Firminy
マルセイユの後、ナント・ルゼ、ブリエ・アン・フォレ、ベルリンで建てられた《ユニテ》は、ここフィルミニが最後の建設地となった。
《文化の家》などとは離れた、街全体を見下ろす高台に建っている。
ロジアの彩色は赤と白の2色で仕上げられ、シンプルですっきりとした《ユニテ》である。
1968年
フランス
ケム・ニファーの水門
Batiments de l'ecluse, Kembs-Niffer
この水門はバーゼルとミュールーズの間の、ローヌ~ライン川運河にある。ル・コルビュジエは水路全般には関与せず、2つの建物だけを設計した。一つは、タワー状のもので、こちらには機械設備、水門の係員の事務所が入っている。 もう一つは、税関と航行事務所のためのものである。 また、地下階には人休憩室、ガレージ、暖房設備も備えている。フランス
サン・ピエール教会
Eglise Saint Pierre, Firminy
ル・コルビュジエが手掛けた最後の教会建築。窪地に垂直に立ち上がる建築として構想された。最終的には当初の計画よりも3割ほど低い34mという高さになったが、天井や、スリット、バラ窓から差し込む光が、精神的な高みへと誘う。太陽の動きによって、異なる光が塔内に差し込む。朝は賑やかな光の帯が幾重にも堂内を巡り、日中は塔の頂から差し込む光が穏やかに全体を照らし、夕方には西側の採光筒からの光が静かに祭壇を照らす。
ル・コルビュジエ没後工事が行われたが、中断し、長く放置された後、21世紀に入ってから再度工事が始まり、2006年に完成した。ル・コルビュジエの設計は生前に終了していなかったため、最終的には弟子であったウブルリ氏が決定している。このため、全てがル・コルビュジエのオリジナル・デザインというわけでない。
2006年
フィルミニ市
フランス
カーペンター・センター
Carpenter Center for Visual Arts
アメリカ合衆国における唯一の作品。ハーバード大学構内に建てられたこの作品は、視聴覚教育のための教室棟として、カーペンター夫妻からの寄付によって建てられた。スロープによって二つの道路を結び、その真ん中の2階部分をメインエントランスとした。ちょうど血管を中心に左右に心房がある心臓のような構成となっている。外観を見ると分かるように、奥行の深いブリーズソレイユが設けられ、見る角度によって、まったく表情を変えている。ブリーズソレイユのおかげで室内には適度な陽射しが確保され、さらに天井に大きく開けられたトップライトから入る陽射しが、スポットライトのような効果をもたらしている。
ハーバード大学
アメリカ
ル・コルビュジエ・センター
Centre Le Corbusier, La Maison de l'Homme
V字型の屋根と傘状の屋根が混ざり合った形状をした屋根が、四角張った建物本体の屋上庭園の上を覆い、この建物の対比の妙を強調している。
屋根は同形の三角形が上(△)と下(▽)を向き、その屋根を支えるのは、太い柱と細い柱。その下の展示室は立方体と直方体。その二つが南北に凸凹になっている。壁面の色は赤、緑、黄、黒、白と絶妙のコントラスト。さらに鉄骨造にコンクリート造の斜路を収める階段塔が接続する対比。それがグリッド18×36という2倍正方形の上に展開されている。
1967年
ハイジ・ウェーバー氏
スイス
フィルミニのスタジアム
Stade, Firminy
《スタジアム》は《文化の家》とセットになって考えられており、トラックをはさんで《スタジアム》のメインスタンドと《文化の家》とは向かい合うことで、完全につながって一体化している。
《スタジアム》の奥には《屋内プール》が建てられてたが、こちらは弟子のヴォジャンスキーによる。
1968年
フィルミニ市
フランス